輪廻のラグランジェ 第十二話 「またいつの日か、鴨川で」



「輪廻のラグランジェ」 の第12話。
原作・制作協力:Production I.G、総監督:佐藤竜雄氏、監督:鈴木利正氏、シリーズ構成・脚本:菅 正太郎氏


「またいつの日か、鴨川で」 シナリオ:野村祐一氏、絵コンテ:五十嵐紫樟氏、演出:五十嵐紫樟氏




第一期の最終回です。


前回のラストは輪廻が開いたところで終わりましたが、今回はランがジャージ部として行う最後の活動と、宇宙へ帰るランの
ためのお別れ会から始まりました。最初は、輪廻を開いたまどかが見ている夢なのかとも思いましたが、それならムギナミが
居ない筈がないということで、時系列をずらして、少しだけ先のことから描かれていたようです。


冒頭の 「浜百合と宇宙船」 の撮影では、ただの映画内の台詞のようでいて、その実、結構重要な意味を持っていそうな
深い言葉が、まどかの落ち着いた語り口で紡がれていましたね。


『ねぇ……この宇宙は、想像も出来ないほどに広くて、紡がれてきた時間は永遠と同じくらいに長くて』
『そんな中で私たちが出会えたのって奇跡だと思う?私はそうは思わない。だって、この出会いは運命に違いないから』


『そう、数多の中の一匹のミツバチと、数多の中の花一輪の出会いが、いつか芳醇な果実を実らせるように』
『木の葉から一滴滴り落ちた夜露たちの出会いが、やがて海原を満たす大河の礎となるように』
『私たちの出会いにも、きっと意味がある』


「紡がれてきた永遠と同じくらい長い時間」 とか、 「数多の中の花一輪」 とか、「私たちの出会いにもきっと意味がある」 とか、
“輪廻” や “ラグランジェ (花)” を想像させる言葉もあって、何かの手がかりとなりそうな気もしました。まぁ、映画自体は
女の子二人で告白し合うという、タイトルに偽りなしの百合物語でしたが (笑)、凄く印象に残る台詞だったように思います。


ランはいつの間にか、クラスメイトにもこれだけ別れを惜しんでもらえるほど溶け込んでいたようで、悲しむさちやみち、しょうこらを
見て、困ったような顔しか出来ないランの不器用さが微笑ましいシーンでした。しかし、ムギナミも居ればきっと同じように悲しむ
友達が居たと思いますが、誰も居なくなったムギナミの部屋が、一抹の寂しさを感じさせずにはいられません。



この 「輪廻のラグランジェ」 は、二万年の時を超えて繰り広げられる、壮大な輪廻の物語であると同時に、等身大の少女達が
描く、青春群像劇でもあるのだと思います。京乃まどかという少女、フィン・エ・ルド・スイ・ラフィンティという少女、ムギナミという
少女。それぞれが自分の “心” に従って行動し、やがてその “心” は、一つに繋がって行くのでしょう。


大局的に見れば、宇宙全体を巻き込むようなスケールの大きな物語ですが、まどかの視点から局所的に見れば、これは友達の
手助けをする 「ジャージ部活動」 の延長でしかありません。レ・ガリテの王女であるランは、政治的な思惑に巻き込まれますが、
最終的にそれはまどかのため、そして敵であった筈のムギナミのためへと変わり、ムギナミも同様に変化していきます。


視点や立場が変われば戦うための動機も変わる。一女子高生でしかないまどかから見れば、二万年前の出来事なんて関係
ない、レ・ガリテやデ・メトリオが何を求めているかなど興味はない、アステリアやファロスの命令には一応従うけれど、ウォクス
に乗ってやることは、ランやムギナミを助け、鴨川の町を守ることでしかない。


第一期では、舞台が鴨川に固定されてましたが、それはこれがまどかの物語だということを強調しているのかな、とも思います。
まどか=鴨川であり、鴨川を舞台に繰り広げられるのは、常にまどかを主人公とした物語であるのだと。宇宙人同士の戦争に
巻き込まれたからといって、それは変わることはなく、まどかの物語は鴨川で始まり、鴨川で終わる。


ただそれは、まだまどかの考えている世界が狭いということでもありますが、これから第二期になって、まどかが鴨川を出て行く
ことがあるかもしれません。しかしそれは、同時にまどかの世界の広がりと、心の成長を意味することでもあるのかな、と。



『私はこの宇宙を、安寧と惨禍で拵えた永久のループに引き込んだ魔女 ―― 。でも安心して、必ず消え失せるから』


この言葉を聞く限り、やはり二万年前に輪廻を開いたのはアステリアであり、ユリカノの前に輪廻の輪の中に居たというのも、
恐らくアステリアのことだったんでしょう。しかし、「永久のループ」 と言ってるのは、“輪廻” という意味でいいんでしょうかね。


アステリアの胸に刻まれたメモリアは、既にその光を失い、肉眼でも視認が出来るようです。これはメモリアしたウォクスが、
機能を停止するとこうなるということなんでしょうか。そもそも、メモリアが肉眼で確認出来ないのは、何か理由があるのかな。


アステリアは以前まどかに、『あなたなら、いいハサミになれるかもしれないわ』 と言っていましたが、あれはまどかが輪廻を
断ち切ってくれるかも、という期待の言葉だったんでしょうけど、この宇宙を安らぎと災いで形作られた、輪廻の中に引き込んだ
という魔女は、それを自分自身でも 『もう一度やってみる』 と決意したようです。


“輪廻” に関しては、今の時点ではわからないことが多いので、第二期で徐々に明らかになっていくのかな、と思います。
しかし、前回ヴィラジュリオが言ったように、心の “淀み” が無ければ、大鬼は鬼じゃないのかもしれない…というのは、
心の迷いが無くなったまどかが、美しい輪廻の花を咲かせたことでも、たぶん正解なんだろうと思います。


そして、迷いを見せたまどかに、道を指し示してみせたユリカノ。あの海岸が鴨川の景色であるならば、あの場所はまどかの
心の中のような気がしますが、アステリアもあそこでユリカノに会っているようなので、どうやら違うようです。当然、ユリカノの
知るデ・メトリオの風景でも無いでしょうし、目の前に広がる海と天に昇っていく光の柱は、一体何を意味しているのか。


まどかの体が鴨川に在る状態で、ユリカノとの邂逅を果たしたということは、“輪廻” は精神世界のような存在と言えるのかな。
ウォクスの実験で輪廻を開いたユリカノは、肉体的には死を迎えたけれど、心は輪廻の中に囚われ続けるということでしょうか。
二万年前に輪廻を開いたアステリアが、ユリカノが来るまでずっとあの場所に囚われ続けたように。


それが、第三話でランが言っていた、『ウォクスと添え往く末に待つもの』 なのかもしれませんね。



まどかとランの別れのシーンは、二人の 「離れたくない」 という気持ちと、「前へ進んでいく」 という気持ちの葛藤と決意が
表れていて、凄く印象的なシーンでした。それに、ランが見えなくなるまで抑えていたまどかの感情が、一気に溢れ出して
しまうところなんかは、普段のまどかなら絶対に見せないような号泣だっただけに、余計に心に残りました。


このシーンで、「TRY UNITE! -Rasmeg Duo-」 を使ったのは、良い選曲だったと思います。


ムギナミには、別れの言葉を言う暇も与えられなかったのは残念でしたが、その分エピローグではまどかへの手紙という
形を取って、まどか達への思いを綴っていましたし、まどかが誓いの丘に残した鍵にも、ちゃんとムギナミの名前が書かれて
いたので、やっぱり三人揃ってこその 「ジャージ部」 なんだなと。


『いっぱい喧嘩して、いっぱい仲直りして、二人のことがいっぱい好きになった』


このムギナミの台詞は、凄く好きです。同じ屋根の下で一緒にご飯を食べて、一緒に眠って、一緒にお風呂に入って、「家族」
になった三人の絆。ランがムギナミとヴィラジュリオを見逃したように、いつもお互いがお互いを思いやる気持ちを持っている。
それがまどかからも、ランからも、ムギナミからも感じられるのが、ラグりんのいいところなんじゃないかなぁ、と思います。


そして最後は、1話の始まりをなぞるような、まどかのジャージ部活動で締め。これは、あれだけの出来事があっても、
まどかの心 (ジャージ部魂) はずっと変わらない、ということでいいのかな、と。いつでもひたむきに、そして真っ直ぐに、
困っている人がいれば助っ人しちゃうのが、変わらないまどかの “心”。


『今日も明日も、みんなと幸せでありますように』 ―― それが、まどかが母親の亡くなった海に、毎日誓っていることだから。



まるっ。



―― 第十二話 「またいつの日か、鴨川で」 (了)




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