輪廻のラグランジェ 第十一話 「鴨川絶対防衛ライン」



「輪廻のラグランジェ」 の第11話。
原作・制作協力:Production I.G、総監督:佐藤竜雄氏、監督:鈴木利正氏、シリーズ構成・脚本:菅 正太郎氏


「鴨川絶対防衛ライン」 シナリオ:大野木寛氏、絵コンテ:吉川博明氏、演出:上坪亮樹氏




今回は、ヴィラジュリオ率いるキッスが、鴨川への全面攻撃を開始。それを迎え撃つのは、地球防衛前線基地ファロス。


まどかの出撃禁止によって、二人だけでキッスの猛攻を防ぎ続けるランとムギナミでしたが、徐々に均衡が崩れて防戦一方。
ファロスの亜空フィールド展開も間に合わず、鴨川危機一髪の状況を救ったのは、イゾ・キリウス・アレイの三人組でした。


『ユリカノに付いていく』 と決意して、ヴィラジュリオと袂を分かち、『全てを敵にまわす』 覚悟を持って、人々の “命” を守る
という選択。それは、ユリカノに教えられた言葉 ―― 『命は、ここにあるだけで奇跡だ』 に従った結果なんでしょう。


しかし、守られる側の鴨川の人々が、避難もせずに戦いを見守ってるというのは、如何なものか…という気はしましたけど。



今回、ヴィラジュリオが “鬼” に関するヒントらしき言葉を呟きました。『心の淀みが無きゃ、大鬼は鬼じゃねーのかな』 、と。
「鬼が立つ」 のは、心の淀みを与うればこそなので、「淀みの無い心」 があれば、それは “鬼” じゃないのかもしれない。


確かに、まどかが輪廻を開く時、その心には 「淀み」 があるかもしれません。 『あんたのやってることは所詮自分のため』 と、
ムギナミに罵倒された時、そしてようこが大怪我を負うのを見て、「大切なものを失う恐怖」 を思い出した時。それを考えると、
「淀み」 とは人間の “負” の感情であり、ウォクスの暴走は人が感情を上手くコントロール出来ないことを意味している…とか。


しかし、負の感情がなぜ 「輪廻」 を開くのか。そもそも言い伝えでは、「淀み」 を与えられて 「鬼は立つ」 と言われてますが、
「輪廻」 に相当する言葉は入っていない気がするんですよねぇ。それとも、「天を裂き」 というのが、「輪廻が開いた」 状態を
表現しているんでしょうか。“萌葱の大鬼” は、アウラのことでしょうし。



まどかが漁船に乗ってファロスに移動している最中に、まどかの 「心の声」 が、格納庫にあるアウラを通してランとムギナミに
伝わっていましたが、地上で錯乱する人々の声まで聞こえてきたのは、まどかだけでした。


ウォクスとパイロットはメモリアを介して “心” を通じ合わせている感じなので、メモリアを持つ者同士が、ウォクスを通して
お互いの心を理解するというのは、何となく分かるにしても、まどかだけがその一線を越えて周囲の声を拾えてしまうのは、
なぜなのかな、と。


やはり、ウォクスとの心の結びつきが、他の二人よりも強いということなのかな。


レ・ガリテの王女としての責務で (?) リンファとメモリアしたと思われるランと、ヴィラジュリオに認めて欲しいという気持ち
だけで、イグニスとメモリアしたムギナミでは、ウォクスとの結びつきがまどかより弱くなるのは、ある意味仕方ないのかも
しれません。まぁ、まどかが海で溺れかけた時、どんな思いを持ってアウラとメモリアしたかまでは、わかりませんが。



しかし、「輪廻が開いた」 ことによって起こる現象に、前回と今回では明らかな違いがあります。前回はすぐに輪廻が閉じて
ラグランジェの花が降って来ただけでしたが、今回は花が降るのと同時に、キッスのオービッドに結晶のような物が生えてくる
という、謎の現象が発生しています。これが一体、どんな意味を持っているのか。


そして、ようこが言った 『二万年前に地球を去った人々と、地球に残った人々との間には、ウォクスに関して認識の違いがある』
という言葉。確かに地球が死滅する程の大惨事が起こったというのに、当の地球にはそれを裏付ける伝承も物証も一切残って
いない…というのは、不自然さを感じます。ようこが 『暴走なんて無かったんじゃないのか』 と思うのも当然でしょう。


それでも 『暴走はあった』 と断言出来るアステリアは、やはり二万年前の暴走に関わっている ―― ということなのかな。



まるっ。



―― 第十一話 「鴨川絶対防衛ライン」 (了)




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